大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和62年(う)132号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

当審における未決勾留日数中一八〇日を原判決の刑に算入する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人佐藤安信作成名義の控訴趣意書に記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官鴻上政志作成名義の答弁書に記載のとおりであるから、これらを引用する。

控訴趣意第一点(事実誤認及び法令適用の誤りの主張)について

所論は、要するに、被告人は、原判決の認定によつても、被害者の顔をにらみつけながら、「金を出せ」と申し向けた程度であつて、凶器を所持していることを装うようなこともしていないのであり、このような脅迫行為が被害者の立場に置かれた一般人の反抗を抑圧するに足りる程度のものであつたとは到底認め難いのみならず、被告人としては被害者の反抗を抑圧してまで金員を奪取する意思はなかつたのであり、それにもかかわらず、そのいずれについても積極的に認定し、被告人の所為が強盗罪に当たるものとした原判決は、この事実を誤認し、その結果、法令の適用を誤つたものであるから、到底破棄を免れないというのである。

そこで、検討するに、原判決が罪となるべき事実及び弁護人の主張に対する判断第一項で認定判示しているとおり、被告人は、銀行から金員を強取しようと企て、原判示の日時に原判示の銀行において、当時現金出納の窓口業務を担当していた女子行員のA(当時二三歳)に対し、その顔をにらみつけながら、「金を出せ」と語気鋭く申し向け、これにひどく脅えて動転した同女から現金一〇万円を強取したものであつて、このことは、原審で取調べた関係各証拠から十分認定できるところであり、当審における事実取調べの結果によつても、原判決の事実認定に誤りがあるとは考えられず、被告人の右所為が刑法二三六条一項の強盗罪に当たるとした原判決の判断は正当として是認することができる。原審及び当審における被告人の供述中、原判決の認定に反する部分は、被告人の司法警察員及び警察官に対する各供述調書並びにその他の関係各証拠に照らし、到底措信することができない。以下、所論に鑑み、更に説明すると、まず、関係各証拠によれば、次の諸事実が明らかである。すなわち、

一  被告人は、昭和五七年一月から福島県郡山市所在の針生ヶ丘精神病院に入院し、境界性人格障害(精神病質)と診断されてその治療を受けていた者であるところ、同六一年六月三〇日午後七時二〇分ころ同病院を無断で抜け出したが、その際、同室のB所有にかかる現金四万七一二〇円を盗み、これを持つて同県いわき市までタクシーで行き、当日は同市内のホテル「いわき」に一泊し、翌七月一日上京した。

二  被告人は、右窃盗事件を起したので、当然警察当局から指名手配がなされているものと思い、九州方面に逃走しようと考えたが、その資金がなく、これを手つ取り早く得るには好きな競輪か競馬がよいと考え、たまたま川崎競輪が開催されていたので、同競輪場に赴き、当日の第一レースから第九レースまでの車券を買つて勝負をしたけれども、結局、四〇〇〇円ないし五〇〇〇円を儲けたに過ぎなかつた。しかし、それだけでは到底足りず、同日の夕方東京に引き返し、千代田区内にある水道橋グランドホテルに泊つた。そして、その晩、宿泊代を支払つたところ、所持金が一万八〇〇〇円位になつた。そこで、逃走資金を得る方法として、ギャンブルか窃盗を働くことなどあれこれ考えてみたが、結局、新聞やテレビ等で、強盗犯人に襲われた銀行が簡単に現金を渡しており、しかもその犯人が余り捕まつていない旨の報道がなされていることを思い出し、銀行強盗を働くのが最もよい方法であると考えるに至つた。また、刃物などを準備しなくとも、男子銀行員ならともかく、女子銀行員であれば、凶器を示さず「金を出せ」といつただけで、怖がつて金を出すであろうし、もし金を出そうとしなかつた場合には、手提袋の中に手を入れるなどして、さも刃物を取り出すような仕草をして脅迫しようなどと考えたうえ、同ホテルで就寝した。

三  そこで、被告人は、トレーナーとトレーニングパンツを着用し、黒いビニール製の手提袋を持つて、翌二日午前七時三〇分ころ、前記グランドホテルを出て横浜に向つた。そして、まず、横浜駅前付近にある三井銀行や富士銀行などを覗いて見たが、いずれも警戒が厳しいような感じだつたので、それらの銀行で決行することを取りやめ、次に、午前九時一〇分ころ、三井信託銀行横浜駅西口支店に赴き、カウンター内に立つて被告人を迎えたC(現姓C'、当時二八歳)に対し、低い声で「お金をちようだい」と一、二回いつて、片手をカウンターの上に差し出したところ、これを聞いた同女は、一歩後退したものの、直ぐ近くのロビー内にいた財務相談室課長Dを呼んだ。そこで、Dは、被告人を同支店の応接室に案内したところ、そこでも「金を出せ」とか「金をくれ」と繰り返すので、「銀行は客の金を預かつているところで、預金通帳と印鑑を持つて来て正規の手続をするのでなければ金を出せないから帰つて欲しい。」旨約一〇分位に亘つて説得した。その結果、被告人は、あきらめて同支店から立ち去つた。

四  右のような事情で、現金を取得することができなかつたため、被告人は、なおも所期の目的を果たすべく、同日午前九時三〇分ころ前記銀行の直ぐ近くにある原判示の第一勧業銀行横浜西口支店に赴き、同支店三番カウンター内の椅子に腰かけて執務していた前記Aの前に行き、携帯したビニール袋は足元に置いたまま、同女の顔を見下ろすようにしてにらみつけながら、同女に対し、押し殺した声で「金を出せ」と申し向け、これを聞き取れなかつた同女に聞き返されるや、更に「金を出せ」と語気鋭く申し向けた。その当時、同支店内には警備員がおらず、男子職員三名、女子職員六名がいたほか、客も二、三名いただけであつた。被告人から前記のように申し向けられたAは、これは強盗だと直感し、被告人が刃物などの凶器をどこかに隠し持つているのではないかと思い、自分自身や店に来ている客などに危害を加えられたりしては大変だと考え、気が動転して体も震え出したが、それでも右隣で窓口事務を担当していたE(当時二二歳)に助けを求めるべく、同女に対し、「Eさん、金をくれといつているけど、どうしよう。」と震える声で話しかけたうえ、現金を保管していた机の引出しを開け、その中にある現金を出したり引つ込めたりなどして、ある程度時間を稼ごうとした。右Eは、Aの言動からして、咄嗟に強盗であると判断し、Aに対し、「Gさんですか」(強盗に入られた場合に使用する合い言葉)と聞いたが、Aはまともに返事ができない状況であり、更に「Gさんですか」といつたところ、漸く頷いたので、かなり恐怖を覚えながらも、被告人が凶器を所持していないようであつたことから、気を静めて、Aに「ちよつと待つて下さい」といつて席を立ち、近くの机に備え付けてあつた非常ベルのボタンを押すとともに、付近にいた同支店次長Fに「次長、Gさんです。」と耳打ちした。その間に、Aは、強盗などの場合に交付する現金として予め番号を控えて用意してある一〇万円の札束をカウンター越しに差し出したところ、被告人は、これを鷲づかみにしてトレーニングパンツのポケットに押し込み、同支店から外に出て行つた。

五  前記Fは、Aの指差す方向を見て、同支店から出ようとする被告人が犯人であることを確認し、その後を追い、近くの歩道上を歩いていた被告人を探し出した。そこで、被告人を銀行に連れ戻そうとしたところ、丁度そこへ警察官が駆け付けて来たので、その警察官らに被告人を引き渡した。

以上のような事実関係によつて考えると、まず、被告人のAに対する「金を出せ」との申し向けが脅迫行為に該当することは疑いなく、右脅迫によつてAが畏怖し反抗を抑圧されたことも関係各証拠から明白である。被告人が銀行強盗の犯人であると直感し、刃物などの凶器を隠し持つているのではないかと思つた旨のAの原審における証言は、本件の場所的状況に照らし極めて自然なものであり、同女が隣席の同僚に話しかけたり、現金の出し入れをして多少の時間を稼ごうとしたりしたことを考慮しても、右Aが被告人に反抗する余地もなく、その要求に従つて現金一〇万円を交付したと認められることは明らかである。

次に、右のとおり被害者のAが反抗を抑圧されたと認められることはさておき、被告人の本件脅迫行為が社会通念上一般的に被害者の反抗を抑圧するに足りる程度のものであつたかどうかについて検討すると、本件脅迫は、前記認定のように、被告人が銀行の窓口カウンターにおいて女子行員をにらみつけながら「金を出せ」と語気鋭く申し向けたというものであり、その際、凶器は何ら所持しておらず、それを取り出すような素振りを示したわけでもないのであるから、通常みられる銀行強盗の事例と対比して、その程度がいささか弱いものであることは否定することができない。しかしながら、本件脅迫の程度を社会通念上一般的に検討するにしても、それは本件の具体的状況を全く捨象して検討するというわけではなく、本件の犯行態様、犯行場所の特殊性、被害者の性別、年齢等の事情をも考慮して判断すべきことは当然であり、本件の場合についていえば、本件のような脅迫が一般的にみて、銀行の窓口で執務している女子行員(年齢の若い者が多いといえよう)の反抗を抑圧するに足りる程度のものといい得るかどうかを判断すべきものであるところ、原判決も説示しているように、近時、けん銃、刃物等の凶器を使用した銀行強盗事件が時折発生し、中には死傷者の出る結果を生じたものもあつて、それが、新聞、テレビ等によつて報道され、銀行員にとり大きな脅威として絶えずその念頭にあるとみれること、カウンターの内側に腰かけて執務している女子行員としては、カウンターの外側に立つている者の下半身や足元の状況が分らず、その所持品についても知り得ないのであるから、相手から「金を出せ」と申し向けられた場合、相手が何らかの凶器を持つているのではないかと考え、何をされるか分らないとの恐怖心を抱くのは当然であると考えられること、現に、本件被害者のAが被告人の脅迫により畏怖し反抗を抑圧されたことは前記のとおりであり、隣席にいた前記Eも、自分としては強盗と思い恐怖心を抱きながらも案外冷静に対処することができたが、もし自分がAの立場であつたならば、やはり同女のようになつていたと思う旨供述していること(Eの検察官に対する供述調書、当審における証言参照)、被告人は本件当時三三歳の男性であり、身長が約一六七センチメートル、体重が五八キログラム位という通常の体格であつて、目つきが鋭いようにもみられ、前記のように、トレーナーにトレーニングパンツという服装であつたこと、以上のような諸点を総合すると、被告人の本件脅迫は、社会通念上一般的に判断しても、銀行の窓口で執務している女子行員の反抗を抑圧するに足りる程度のものであつたとみて差支えないというべきである。銀行内には男子行員や客などを含めて多くの人がいるのが通常であること、本件の銀行を含め、一般の金融機関においては、防犯カメラや非常ベルを設置し、合い言葉を定めたり防犯訓練を実施するなどして強盗犯人等に対処する方策を講じていることなどの点を考慮に入れても、本件脅迫についての前記判断を左右すべきものとは考えられない。なお、被告人は、前記認定のとおり、本件犯行の直前に三井信託銀行横浜駅西口支店にも入り、女子行員らに金員交付の要求をしたものの、相手方を畏怖させるまでに至らず、金を取得できなかつたことが明らかであるが、右銀行の場合と本件店舗の場合とでは、被告人の用いた言葉、相手方の位置、状況等が著しく異なつているのであるから、両者を同列に論ずることはできない。以上によれば、被告人の本件脅迫行為は、社会通念上一般的に判断しても、被害者の反抗を抑圧するに足りる程度のものであつたというべきである。

更に、被告人の犯意について検討すると、さきに認定したような被告人の本件前夜からの計画、行動、特に他の銀行では犯行を取りやめたり、金員取得に失敗したりしながら、なおも所期の目的を果そうとして本件犯行に及んでいることのほか、被告人の各供述調書の記載内容や原審公判廷における供述等をも総合すれば、被告人が銀行で女子行員から金を奪い取ろうと企て、本件程度の脅迫によつて女子行員がこわがつて金を出すであろうと考え、本件犯行に及んだことが明らかであるから、強盗罪の成立に必要な犯意に欠けるところはなかつたものといわなければならない。被告人の本件犯行の態様や犯行後間もなく現場付近で銀行員らに捕まえられた状況などを考え合せても、被告人に金員強取の意思がなかつたものということはできない。

以上のとおりであるから、被告人の本件所為について強盗罪の成立を認めた原判決は相当であつて、所論のような事実誤認はなく、原判決が法令適用を誤つたものということもできないから、論旨は理由がない。

控訴趣意第二点(事実誤認及び法令適用の誤りの主張)について

所論は、要するに、本件犯行当時、被告人は心神耗弱の状態にあつたものであつて、これを認めなかつた原判決は、事実を誤認し、その結果、法令の適用を誤つたものであるから、到底破棄を免れないものというのである。

そこで、関係各証拠を検討して判断するに、被告人の責任能力について、原判決が弁護人の主張に対する判断第二項において詳細に説示している諸点は、各証拠に照らし相当であつて、本件犯行当時、被告人は心神耗弱の状況になかつたものと認めた原判決の判断は正当として是認することができる。所論に鑑み、更に補足すると、被告人は、前記のように昭和五七年一月から針生ヶ丘精神病院に措置入院させられていたのであるが、主治医の診断によると、その病名は境界性人格障害(精神病質)というものであつて、内因性の精神病とは全く異なるものであること、そして、そのように診断されたのは、被告人が窃盗などの悪い行動を繰り返していること、結婚して一児を儲けたのに父親としての自覚が全くないこと、日によつて気分が憂鬱になつたり、軽い躁状態になるなどの変調があることなどを根拠とするものであり、右以外に精神病を疑わせるような異常所見は認められないこと、前記のように、右病院を抜け出す際、同室の患者の所有にかかる現金を窃取して、これを逃走資金に充てていること、上京する際にはわざわざいわき市を経由し、その後本件犯行に至るまで二か所のホテルに泊つているが、いずれの場合も偽名を使用していること、上京後、逃走資金を得るため、川崎競輪場に行つて、九レース分の車券を購入し、約四〇〇〇円ないし五〇〇〇円を儲けていること、本件犯行前に二か所の銀行で銀行強盗をすべく、その店内を覗いたりしたが、警戒が厳しかつたため中止している、その後、三井信託銀行横浜駅西口支店でも金を得ようとしたが、その目的を遂げず、本件犯行に及んだこと、以上の諸点が関係証拠上明らかであり、以上のような、被告人の病状、病院脱出後の行動、本件犯行に至つた経緯のほか、本件犯行の態様、被告人の捜査官に対する供述の内容等からすると、被告人は、本件犯行当時、物ごとの是非善悪を弁識し、これに従つて行動する能力を有していたものであつて、その能力が著しく減退した状態ではなかったものと認めるのが相当である。所論の指摘するような本件犯行の態様や犯行後の行動を検討してみても、被告人の犯行当時における行動が特に異常であるということはできず、被告人の年少時からの経歴、病歴を考え合わせても、弁護人の心神耗弱の主張を排斥した原判決の判断に誤りがあるとは決して考えられない。

そうすると、被告人の責任能力に関する原審の判断には何ら事実の誤認がなく、この点につき原判決が法令の適用を誤つたものということもできないから、控訴趣意第二点の論旨も採用することはできない。

よつて、刑事訴訟法三九六条により本件控訴を棄却し、刑法二一条に従い当審における未決勾留日数中一八〇日を原判決の刑に算入し、刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して当審における訴訟費用は被告人に負担させないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官千葉裕 裁判官新田誠志 裁判官山田公一)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例